≪ ヒストリー ≫
樋口真吉

樋口真吉

樋口 真吉(1815~1870)

 文化12年幡多郡中村(現四万十市中村小姓町)の郷士(足軽)の家に生まれる。
 19歳で学問に志し遠近鶴鳴(とおちかかくめい)に学び、のち諸国を遊歴して剣術・槍術・砲術を修行。
 23歳のとき筑後柳川(ちくごやながわ)の大石神陰流(おおいししんかげりゅう)(大石進)に入門し、印可(免許)受け帰郷後、中村に家塾を開き、門弟は1,000人に及ぶ。幡多・香我美郡及び高知城下町奉行の下役を歴任。
 土佐西部の勤王党の盟主として知られ、藩主の上京に扈従(こじゅう)。武市瑞山の下獄(げごく)後、勤王党の善後策協議には自重論を唱えた。戊辰戦争に従軍、凱旋後留守居組に昇進。
 明治3年大納言徳大寺家の公務人となったが同年6月14日、東京で病没。享年56歳。
 墓は四万十市土生山(はぶやま)に現存し、島村速雄海軍元帥撰文による彰徳碑(しょうとくひ)が為松公園三の丸にある。

  • 【樋口真吉の墓】
  • 【島村速雄海軍元帥撰文による彰徳碑】【樋口真吉:大石神陰流免許皆伝の書】

龍馬との出会い

 龍馬、16歳の時、父・八平(はちへい)に代わって藩命で四万十川(渡川)改修工事に従事(郷士島某(しまぼう)に同行、工事を監督)した。真吉は36歳であった。彼は、当時中村で唯一の剣術道場主であり、龍馬に大石神陰流の稽古を勧めるとともに、諸藩情勢や外国の事情などを教えた。
〔工事中、龍馬が昼寝をした松が四万十川(渡川)の右岸にあった、という伝承がある。〕

  • 【砂斬り刀:差料と同じ形・重さの練習刀】
  • 【樋口真吉:大石神陰流免許皆伝の書】

坂竜飛騰

【島村速雄海軍元帥撰文による彰徳碑】 龍馬は、土佐勤王党員になった後、「剣術修行」の名目で藩の許しを得て讃岐・丸亀に出国。
この旅の真の目的を深く知っていた真吉は、日記「遣倦録(けんけんろく)」に「坂竜飛騰(さかりゅうひとう)」と記している。
 天に昇る前、地上にうずくまって力を蓄えた龍が飛び上がることを「蟠龍飛騰(ばんりゅうひとう)」というが、真吉は、「蟠龍」を「坂竜」と置き換え、龍馬の大いなる能力を見抜き、表現した。

竜馬に逢い1円(1両)を贈る

 真吉の日記「遣倦録」に「逢竜馬贈一円」とある。脱藩した龍馬に大阪市中で再会した真吉は、困窮の極にあった彼に一両(約5万円)を渡した。

暗殺一ヶ月前の手紙

 身の危険を感じた龍馬は、在京の友人望月清平(もちづきせいべい)に火急の手紙を出した。
「今いる近江屋が危ないので、樋口真吉に頼んで安全な隠れ家を探してくれ。」
(原本は坂本龍馬記念館が所蔵)
 しかし、翌日から望月清平は、本藩〔高知〕へ出張のため忙しく、その願いは真吉には伝わらなかった。
「龍馬が最後に信頼した樋口真吉」
 このとき、真吉に龍馬の必死の叫びが伝わっていれば歴史は変わっていたかもしれない。

 中村が生んだ「偉人 樋口真吉」の日記「遣倦録」、愛用の「砂斬り刀」や「土佐幡多郡砲台図編」などは、四万十市郷土博物館に保管されています。

四万十市郷土博物館

住所/四万十市中村2356為松公園内
TEL/(0880)35-4096
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