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一条教房は、応仁の乱を契機として京都から幡多へ下向し、土佐一條氏の基盤を作ります。文明12(1480)年、58歳で薨(みまか)ると現在の奥御前神社の北の谷(妙華寺谷)に祀られました。墓は弘化3(1846)年の山崩れで埋没していましたが、明治33年に五輪塔の一部が発掘され、これを機に一條家が再興したものが現在の五輪塔です。
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四万十市中村丸の内1639
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